コンピュータの昔と今

私が現在の職を得る以前、文字を打つための機械は、「ワープロ専用機」全盛時代と言ってもよく、結構いろいろな機械を買い替えたものである。

一番最初は大学院のころ、NECワープロ(文豪)を購入した。これはキーボードが特殊な配置になっているもので、当時は使いやすいと思ってはいたがその後スタンダードではなくなり、買い替えることになった。次の機種はたしか Casio 社だったと思う。これは結構長いこと使った。ワープロ機は自分の文章がすぐ活字になる嬉しさがあったものだ。

その時代の流れの中で、パソコンも結構普及していたとは思うが、使おうとは思わなかった。それについては「ゲームをやることになりそうで嫌だ」など理屈を言っていたと思うが、結局は時代の先を読めていなかったのだと思う。就職で常勤職が決まった時にノート型パソコンを買ったのは正解だった。

しかし、しばらくは私のような考え方に批判的な意見はあった。時代はまだアナログ文化だったためで、原稿は手書き、という人も多かったのだ。しかし、ワープロは使っていても「Works」「Word」「Lotus123」などで何かを提出せよ、となった時にいろいろ困った人もいるとは思う。思えばそのころはワープロソフトも「一太郎」が主流だったし、Dos-vだとか拡張子だとか、まだ理解していない人もたくさんいたと思う。

現在では「WORD」が主流になったのはなぜなのかと思うことはある。ワープロソフトで WordPro, WordPerfectというのもあったのだが今はあまり聞かない。そしてブラウザもその昔は Netscape が多かったと思うのだが今は Google Chrome を使う人が多いようだ。Sleipnir も使った時期はあるのだが、今は使っていない 。Opera も良いブラウザだとは思ったのだが・・ (現在私は Firefox も使っている)

これでも結構コンピュータのことは勉強した人間で(笑)、ある種の授業も担当したことある。Unix の時代から使っていた人間から言わせてもらうと、使いたい機能がすべてそろっている機械の使い方云々、という勉強はどうも危ういような気がするのだ。キーボードでいろいろ打ち込みながらコンピュータを動かす楽しみが昔にはあった。「ms-dosプロンプト」で「Ftp」「Telnet」を使って、などやっていたころが懐かしい。

どこかで書いたかもしれないが、現在私は数台のパソコンを使っており、メインは中古のデスクトップパソコンである。これは大きなディスプレイで文字を見たいということのみで買ったので、動作は遅いが仕事には十分である。仕事の敏捷性を優先させるときは性能の良いノート型を使う。これも気に入ってはいるが、やはり画面は大きいのが疲れないので、使用頻度は低い。

パソコンを使っていて一番楽しいのは、やはり文字を打っている時である。我が家の書斎でキーボードをたたいている時間が至福の時なのである。


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「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ」の勉強(6)

昨年書いていたものの続きである。しばらく休んでいたが、「ピアノソナタ第30番 Op.109」から再開した。いつものようにベーレンライター版(以下「B版」を使用、初心に帰って楽譜を見ながら、指使いなども考えて演奏する。

「Op.109」はまず第1楽章で、Henle版ではlegato と書かれていた表記が「ligato」となっているのに気が付いた。この言葉については、かなり昔に某音大の先生から聞かれたことがあるのだが、森田学『音楽用語のイタリア語』によれば「古いイタリア語ではligato と言いますが、現在この形は使いません」と書かれている。野上素一編『新伊和辞典(白水社)』に「ligare: tr(他動詞)《雅》結ぶ,結合する,関連づける」とあることから、その時は辞書の通りにお返事を差し上げた。デル・マーの解説には、ベートーヴェンがいつもこの古い言葉を用いていたというように記されている。

第1楽章から第2楽章に移る際に終止線ではなく複縦線であることから、この曲は2楽章制なのだ、という意見をしばしば聞いたことがあるが、B版では第3楽章に移る際にも複縦線になっている。たしかに自筆稿をみると複縦線なので、この表記がベートーヴェンの意図なのだろうと私も思った。つまりピアノソナタ Op.27-1 や弦楽四重奏曲第14番 Op.131などのように楽章ごとの終止を無くしたと考えるべきなのだろう。

「Op.110」ではピアノ指導を受けた時にいろいろ楽譜に書いていない解釈を伝授されたことを思い出す。松野先生の恩師、永井先生はこうだった、などと聞くと演奏の歴史の重みを感じたものだった。例えば第1主題の第3小節の前でブレスをとるのかそうでないのか、第66小節の cresc. はどのように演奏するのか・・などいろいろ考えながら勉強したものである。この曲で驚いたのは第2楽章のアーティキュレイション。第5小節から第6小節に右手のスラーがかかっている。ここは第5小節でスラーは終わっている楽譜しか見たことがなかった。右手はスラーが終わり、左手は次の小節へのスラーが続く。それゆえ私は第5小節2拍目でペダルを上げる弾き方を選択していたのであるが、これもデル・マーの解説に「明らかに第6小節までかかっている」とあるので自筆譜を見たところ、やはりその通りだった。Wenzel Rampl による写本の誤りと判断すべきとあった。おそらく今後は考えを変えて演奏することになると思う。現在では私のようなものでも簡単に自筆譜を見ることができる。非常にありがたいと思っている。

第3楽章のレチタティーヴォ、第5小節の部分で左手はどこで入ってくるのかという問題。ヘンレ版だと32分音符2つになってから11番目の音符のところ、ウニフェルザール版だと13番目のところ。私はずっと後者で演奏してきた。これは自筆譜をみても判別できない。B版の解説を読むと、おそらく自筆譜でページが変わっているところで左手を導入する考えだったことは明らか、とある(垂直に揃えることにはあまり注意しなかったらしい)。以下は初版の表示。ウニフェルザールもこの位置だが、改めて見るとやはり何だか不自然な感じはする。左手が入ってきた時がホ長調という考えの方が自然だ。

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第174小節には「Tempo Ⅰ」という表記がある。これは以前の楽譜では見たことがなかったが「自筆譜(鉛筆)と1823年のイギリス版(クレメンティ)には書かれており見落とされた」とあった。確かにそのように書かれていることを確認。楽譜の選択はやはり大事だということを再確認した。

このフーガは弾きやすそうに見えて、実はなかなか覚えにくい曲だと思う。こういう曲は時々練習するべきだと強く感じた。

次は最後の第32番 Op.111。もう少し時間を置いてから演奏することとしたい。というのは今回の2曲はさらに復習をしたいと思ったからである。

進路の決定

10年くらい前のことになるが、あるホームセンターの駐車場を歩いていた時、「三國君ですか」と声をかけられた。何と中学校時代の同級生だった。

現在は福島県で仕事をしているということで、原発事故の影響はまだあると言っていた。いずれゆっくり会って話したいね、と言って別れたが、その後メールのやり取りが何回かあった。

彼が言うには「お酒あまり強くはないですが、ゆっくり飲みたいね。君は、自分の思った通りの人生を歩んでいるだろうから、今更だけれどもその極意を伝授してもらいたいな。また、会えるときを楽しみにしております」とのこと。

この「思った通りの人生」という言葉であるが、私には何だかピンと来ないものがある。

というのは、彼が言っていることは、私がその当時男子で習う者がほとんどいなかったピアノという分野で仕事をしていることと思われるが、私は自分で「この道を歩もう」とはっきり思ったことがあまりなかったからである。小さい頃は親の言いつけ通り習っており、中学校以降は先生に言われたことを愚直に守ろうとしただけなのだ。大学が終わり、社会人となった時にやっと「音楽で生きていくしかない」とは思ったのだが。ただ、音楽の演奏のみで生活していくのは難しい。やはり教育・指導の仕事も必要だとは考えていた。

人生の方向を決定する時期は人によって異なる。伝統芸能の家に生まれたらその道を継ぐことはほとんど既成事実になっていることが多いだろうし、親の事情で(病気になった等)仕事を選択することもあるだろう。受験の成功や失敗によって左右されることも大きいだろう。本当に「自分で選ぶ」人生って意外と少ないのかもしれない、と最近考えている。

そうは言ってもピアノをなぜ続けたのか、ということを考えると、やはり音楽が好きだったからということはある。ただ、好きなのは「音楽」だったのであって、「ピアノ」ではない。だから、音楽学の分野や、作曲、編曲には興味があった。今でも時々友人から「彼は学者肌の演奏家でして」と紹介されることもあるが、悪い気はしない。要するに自分はコンクールに優勝することを目指すようなタイプではないと思っている。

若い人たちに進路についてアドヴァイスすることもあるが、本当に言葉の選び方は難しいと思う。「進路は自分で決める」ことが大事です、と言ったりもするのだが、親や先輩、友人との話が影響することもあるだろうし、本当に何が人生を決めることになるか分からないと思うのである。ただ、最後には自分で決断することが大事には違いない。後から「あの時○○だったら」などと後悔するようなことにならないために、である。私も親や先生の言う通りに音楽を続けたが、もし高校受験に失敗したら違った人生になっていたかもしれない。そのくらい「音楽で生きる」ことの難しさを最近感じているのである。

 

オーディオ道楽

学生のころ、お金もないのに秋葉原を歩くのが大好きだった。これはいろいろなお店でオーディオを試聴することが目的だったが、歩くコースは決まっていて、オーディオ専門店~中古レコード店お茶の水)~古本屋街(神保町)。

自分のお金でスピーカーやらアンプやらを買えるようになった時は嬉しかった。最初のアンプは確か Victor だったように思うが、それからDenonLuxman というようにグレードアップしていった。スピーカーの初めは Otto という銘柄(サンヨー)で、それからKEF、Tannoyと変わった。現在はCelestion SL-6 Si を使っている。思い出すのは、CDプレーヤーが最初は高くて買えず、友人のお古を譲ってもらったこと。オーディオ道楽にはお金がかかる。

ところで2017年6月、使っていたアンプの具合が悪くなった(ような気がした)。このさい上級のものに買い替えようと思い高崎市の某店に行ったところ、ラックス L-507uxがお安く買えますよ、と勧められた。それまでのL-505f はA級アンプだが今度のはAB級とのこと。まあ音は良くなるんだろうな、と思って購入したのである。良くなったような気もするが実はオーケストラの録音などだと高音がきついような感じがして、トーンコントロールを調整して使っていた。音の広がりは良くなったような気がしていた。

ところが最近、ベームウィーン・フィルブラームス交響曲の録音を聴いた時どうも音に違和感を覚えたのだ。こんな弦の音ではなかったような気がする。そこで別の部屋で時々使っていた L-505f を再びメインで使ってみたところ、何のことはない、素晴らしい音なのである。オーケストラもいいしピアノもスタインウェイらしい音に聞こえる。そうすると4年前は何だったのだろうか。きっとどこかの接触が悪かったのだと思う。時々掃除をした方がよい。

というわけで現在は、A級アンプの方がクラシックを聴くのには適しているのではないかと思っている。

私は車のオーディオにお金をかけることはしない。所詮、ノイズの中で聴く音楽なのでいくらお金をかけてもクラシック音楽だと弱音は良く聞こえないから。車で聴くのはもっぱらAM放送ばかりだ。

良い音はやはり家で聴きたいものである。

 

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音楽のリテラシー

リテラシーliteracy)は、Wikipedia だと以下のように記されている。

原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり(後述)、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。 ちなみに、古典的には「書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力」と言う限定的に用いられる時代もあった。

要するにふつうは「読み書きの能力」というような意味で使っているようだ。「ITリテラシー」「コンピュータ・リテラシー」などは私も時々耳にしたり、自分も使ったりしてきた。

ところで、最近、音楽のリテラシーという言い方を聴くことがあって、音楽科の授業でいったいどのくらい行われているのかを知りたいと思っている。というのは、机を置かない音楽室のことを以前書いたのであるが、依然として音楽の授業が歌唱中心になっているような気がするからである。「創作」は学習指導要領でも記述されている分野なのだが、どうも少ないのではないかという気がしている。これは身近な人に聞いた範囲のことなので実際は違っているのかもしれないが、器楽および創作の分野で、楽譜の読み書きは非常に大事だと思っているので、いつか調べてみたいと思っている。

創作と言えば、簡単なメロディーの作り方などは習った。しかし小学校で1時間、中学校で1時間程度しかなかった記憶がある。小学校の時はとにかく何か作りましょう、という感じで、ハ長調の曲が最後「レ」の音で終わっていた人もいたが、発表の時になって「最後はドで終わるんですよ」、などと先生が言っていた。それなら最初から作り方をある程度教えてくれればいいのに、などと思ったことを記憶している。「君が代」はレで終わっているじゃありませんか、と言おうと思ったがやめておいた。

中学校の時も同じような感じで、小学校との違いは、作る旋律が長くなったくらいだった。私は途中からリズムを変化させ、8小節であるはずのメロディーを9小節に作ったが先生は何も言わなかった。自分では結構楽しんで作ったが、その時の大半の生徒は作り方についてよく分かっていなかったのではないか、という気がする。

さて、Garage Band というアプリを使った音楽授業について話を聞く機会があった。これは私の知らないものであったが、子供たちが簡単に音楽を作成できるという。聞いてみると、まず楽器を選択し、自由に音を並べていけるのだということだった。なかなか面白そうなのでそのうち「iPad」を買ってみようかと思っている。

ただ、私のような世代の人間は、何かを作曲する、編曲するには五線紙に鉛筆で書くものだと思っているので、こういう機械を使いこなせるのか不安である。それでも、かつてはシーケンサーを使ったこともあり、ある歌曲の編曲を行ったとき、演奏したものをソフトに読み取らせてそれをもとに楽譜に書いていった、などの方法をとったこともある。やってみれば簡単だということなのかもしれない。

しかし、楽譜を読む、書くという能力は音楽を学ぶ際に私は重要だと思っているので、楽譜を使わずにタブレット上で創作を行うということについての意見を述べることには、今のところ慎重でありたいと思っている。

テクニックの向上について

ピアノ演奏において、テクニックを向上させるためには何が必要だろうか、とよく考えている。

「練習あるのみでしょうか?」という問いには「そんなことはありません、合理的な練習方法はあります」と答えたこともあったが、やはり練習の時間も必要な気もする。なのでこの時期、私は自分の練習時間が大切だと思うようになったし、以前書いたことだが身体の調子を維持することも重要である。

チェルニー50番についてはすでに書いたので省略する。順調に練習、と言いたいところだが最近は公務もあり少々滞っていることも事実。しかし自分に課したノルマ通りに練習を続ける(ある人には話したが基本的には私の方法は内緒)。この練習のお陰で、ショパンの苦手だったパッセージが突然弾けるようになったことには驚いた。やはりエチュードは大事だと思う。

チェルニーが終わっていないのだが、それだけではやはり練習していて楽しみが少ないので、以前のレパートリーを復習することも日課としている。レパートリーは膨大なので全部を練習することはもちろんできないから、これは重要だと思う曲を少しずつ復活させようという趣旨である。

まずはベートーヴェンピアノソナタ。これは以前から継続しているが第30番まで来た。あともう少しであるが、再びベートーヴェンソナタ全曲を演奏することはないと思う。

その次に私の主要レパートリーであるブラームスソナタと変奏曲(「シューマン」「ヘンデル」「パガニーニ」)は勉強したのだが公開演奏をしていないので、いつか演奏をするかもしれない。そう思って練習をするが、たぶんヘンデル変奏曲を演奏することはないと思う。シューマン変奏曲は好きな曲なのだが一般的にはプログラムに入れても聴衆を呼べそうにないような気もする(悲しい)。

ブラームスの2曲のピアノ協奏曲を演奏できたのは私の良い思い出である。これは「福島市民オーケストラ」の皆さんのお力によるところが大きかった。ただ、この演奏会が終わると、大丈夫だと思って弾いていた箇所が、全然弾けなくなることに気づいたが、ピアノ協奏曲を演奏する機会がそうそうあるわけでもないからあまり練習もしない日々が続いていたのである。

しかし、自己のテクニックが衰えていくのはつらいものがある。そのため、最近またさらい直してみた。すると、ツェルニーの成果が確実にあったことに気付く。ピアノ協奏曲第1番第1楽章の展開部(オクターブのパッセージなど)、f:id:MickN:20210128201913j:plain

第2番第1楽章の展開部(6度3度の組み合わされたパッセージなど)

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が、かなり軽快に弾けるようになっていることを発見したときは嬉しかった。やはり練習の積み重ねが大事だと思う。

コンサートで演奏することはさておいて、こういう作品が演奏できないようになったら私はピアノ指導などすることはできないと思っている。その時はすべての音楽活動を終了するときだと思う。

習い方

昨年12月25日の投稿で書いたことだが、指導者から紹介されたという学習者以外、私は自宅でのピアノ指導をしていない。

それは、私が複数の指導者に同時に習うことができない人間だから、ということも理由の一つだからである。

高校3年生の頃だが、ある作曲家の先生にいろいろ音楽の指導を受けたことがあった。これは友人に誘われてのことであって、ソルフェージュ、作曲、編曲、楽曲分析などを仲間と一緒に習っていたのであるが、だんだん授業が進むにつれて、その先生はピアノの奏法についても意見を仰るようになったことを覚えている。結果、私は悩んでしまい、通常のレッスンでピアノの先生に「どうしたんだい」と言われるようになってしまった。その後こういう指導は受けないようになってしまったのだ。

この出来事から、複数教師に実技を同時進行で習うことは危険と考えるようになったのである。以前書いたように、先生から「この先生のレッスンを受けなさい」と言われる場合と大学での公開講座などは別の話。

もちろん、複数の指導を受けた方が性に合っている人もいるかもしれない。しかし、普通は生徒の側から指導についての疑問はなかなか言えないのであって、指導の内容が異なる時は、どちらを採用するかなどを考えてストレスになるのではないかと思う。

そういう「習い方」の例を何回か見てきたが、私は事なかれ主義(?)のため、基本的にはほとんど何も言わない。それは習う人たちの責任であろうと思うからである。

最近考えていることは、そういう、複数教師について勉強している人は全部を消化して学習することは難しいだろうということ。要領のいい学習者もいることであろうが、普通は難しいと思う。練習の時間的な問題が大きい。

演奏するのはそのご本人でしかない。その演奏がその人の音楽を表している。と考えると、種々の指導を数多く受けることより、自分で音楽について掘り下げて考えることの方がよほど大事である、と思うのだがいかがだろうか。もちろんこれは大人の(高校生以上)についてのことであろうが・・・

ところで、私のピアノの先生は、私が大学院を修了してからは「レッスンはしない」という考え方で、それゆえリサイタルの前などには「リハーサルを聴いてください」という形でご意見を賜ったものであった。ホールでのリハーサルも聴いてくださった(おまけにお昼ごはんもご馳走になった)。プログラムの作り方についても有益な意見を伺ったが、基本は私の考えを尊重してくださった。本当に感謝している。このような指導者に私もなりたいと思っている。