ファニー・ヘンゼルのピアノ作品

現代では「ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル」という表記も見られるが以前の表記で書く。

数日前、FM放送を聴いていたらこの作曲家のピアノ曲が流れてきた。非常に美しく、シューマンメンデルスゾーンを合わせたような、そして何とも色彩感のある和声に心惹かれるものを感じたのだが、それがメンデルスゾーンのお姉さんの作品だということは演奏後のナレーションを聴くまで分からなかった。

その時聴いたのは「“ピアノのための四つの歌 作品6”から“アンダンテ・カンタービレ”“ローマのサルタレロ”」で、ピアノはアレクサンダー・クリッヒェルということだった。気になってこの曲集の楽譜を見たところ、すべてが美しい作品で、F.メンデルスゾーンの「無言歌」を思わせるような曲もあった。

ファニー・メンデルスゾーン(結婚前)は弟と同じく並外れた才能を幼少期から発揮したそうだが、女性が職業作曲家になることに当時の社会は否定的だったそうで、弟の良き相談相手となっていたそうである。ヴィルヘルム・ヘンゼルとの結婚後、ご主人の理解のもとに演奏・作曲活動を行うようになったらしい。Wikipedia を見ると「夫ヘンゼルは、ファニーの音楽的才能の最大の理解者であり、自作を公表・出版するようファニーに根気よく説得した」とある。なるほど、女性作曲家がまだ少ない(ほとんどいなかった?)時代に、やはり画家という、芸術を愛する伴侶の理解が重要だったのだろうと思う。

この人の作品に興味を持った。全ピアノ曲を調べてみたい。そして、できれば1年後のリサイタルの曲目として考えてみたいと思っている。

音楽と時間

ピアノ作品の難易度を科学的に数値化できないか、ということを考えたことがある。

楽譜をスキャナで読み取り、技巧の種類、和音の厚み、速度、強弱の変化などを分析、この作品のグレードは〇〇です、などと表すことができれば学習者には大変便利だろう、ということなのだが、なかなか難しそうである。現在も時々考えるが、まあ、無理ではないかと思っている。

しかし難易度というものは存在するのであって、ブルクミュラー25の練習曲よりはショパンの練習曲作品10の方がずっと難しい。これをどのように説明できるのか、というのは私の今後の課題かもしれない。

さて、話は変わるが、日本バッハコンクールを知人が聴きに行って「かわいそうだった」と言っていた。何が、というと、曲の途中で演奏を打ち切られる人が多かったのだそうである。みな残念そうな顔をして帰っていったという話だった。これについては、コンクールの運営上の理由でしょう、と知人氏には申し上げておいたのだが、時間が来たからやめなさい、という方法での評価は昔から疑問だった。これに賛成の人はみな「平等だから」という。しかし、本当に時間で揃えることが平等なのだろうか?

時間の感じ方は人それぞれで、また体調の良し悪し、興味のあるなしによって変化することは誰しも経験があるとは思う。つまらない講義は長く感じるし、ゲームなどにのめり込んだら数時間などあっという間、ということもあるだろう。音楽も同じであって、良い音楽はずっと聞いていたいし(それゆえ「アンコール」という文化が生まれたと思う)、つまらない音楽だと数分で帰りたくなることだってあるはずである(こうなると演奏会も難行苦行に近い)。

もちろん、ホールを借りる都合、審査の時間などもあって演奏時間を調整するのだと思うが、ひとつの作品を演奏してもらう場合、その曲の最後まで演奏は聴くのが基本だと考える。これは、無理は承知で申し上げたい。演奏者のそれまでの準備、努力を考えると、最後の一音まで弾いてもらいたいと思うのが音楽を愛する人に共通の思いであるはずだと考えるのだ。

それでは、テンポの遅い曲と速い曲、繰り返しが多い曲とそうでない曲などをどう考えるのか、ということもあることだろう。その辺はコンクール開催者が「音楽的」に判断して決めて示す方法が良いと思う。長すぎる曲は課題曲としない、など。

ただ、本来の作品の通りにすべて演奏すべきである、という「オリジナル至上主義」も時と場合によるように思う。適度に編集された演奏で聴く方が楽しい場合もある。たとえばヴァーグナーの楽劇など。また、ブルックナーの「交響曲第9番」は未完成の作品だそうだが、さらに長大なフィナーレがあったらどうだったか。私は皆さんが名曲という同作曲家の「第8番」のフィナーレはいつ聴いても長いと思う。「第7番」を愛好するのはフィナーレがすっきりしているからであり、その他には「第6番」も好きである(特にヨッフムの指揮)。

音楽はその作品、演奏の魅力、どんな聴衆が聴くか、どんな場所で演奏されるか、などによって時間の感じ方は違ってくるとは思うが、一般論として、2時間を超える演奏会はやはり長い。いつだったか、アンコールを何曲も弾く人がいて、終了が22時近くなった演奏会があったが、これはさすがに行き過ぎかと思ったものである。何事も程々というのが良い。

[続]自動車はなぜ・・??

意外と簡単に分かった。

バイクとの曲がり方の違い、というサイトを見ていて大体のことが分かったし、デファレンシャルギアという装置があるのだそうだ。

https://www.webcartop.jp/2017/09/155996/

あとは電車の問題だが、「フランジ」と呼ばれる装置のことを学習した。

http://kids.mintetsu.or.jp/know/qa/qa_mechanism.html

「分岐装置」については以下のサイトが分かりやすかった。

http://www.tawatawa.com/denshanani/page022.html

 

これでやっと落ち着いて眠ることができそうである。

 

自動車はなぜ右折できるのか?

右折でも左折でもいいのだが、そもそも、なぜ自動車がカーブして進行できるのかが分かっていない。電車についても同じである。

それについては本も出ていたのだが、こんなサイトを見て、疑問は解決できるように思える。

https://www.autoexe.co.jp/kijima/column11.html

https://www.hai-sya.com/column/steady_circular_turning_univ005.html

しかし、電車は「ポイント」ひとつでなぜ線路変更ができるのだろうか?

とにかく、車は四輪をどのように使って曲がることができるのか。この問題について今日から真面目に考えていく。

「伴奏」の思い出

私は音楽高校で学んだが、それまで一度も経験したことのない依頼が入学早々に来て困惑したのを覚えている。ヴァイオリン協奏曲の伴奏である。

伴奏と言えば、小学校、中学校では合唱の伴奏を何度か経験したが、個人相手の伴奏の経験はない。でも友人から頼まれて嫌とは言えず、自分なりに努力して勉強をした。その後こういうことが何回かあったが、ラロ「スペイン交響曲」の時、渡された伴奏譜にいろいろ音が書き込んであったのには驚いた。楽譜通りに演奏することしか知らなかった私は、この時、時には編曲が必要であることを知り、俄然、この分野に興味を持ったのである。話は飛ぶが、大学のある試験でショーソン「詩曲」の伴奏譜にやはり最初から書き込みがされていたのを見て、もっと効果的なものを作ろうと思い、オーケストラのスコアを見ながら自分で編曲を行ったこともある。

声楽の伴奏は高校の副科の授業で担当したが、その時の試験で声楽の先生から褒められたことが、その後の私の勉強をある意味で方向づけたのかもしれない。こういうことは誰にもあると思う。

現在はどうなのかは知らないが、私が学生時代は、伴奏は義務ではない(高校の時に合奏だったか室内楽だったかの単位になるということでピアノ専攻生は全員何らかの伴奏を担当しなさい、ということはあったが)。それゆえ信頼されるピアノ専攻学生には依頼が集中するということがよくあった。私はそれほどでもなかったが、あるヴィオラ奏者が今でも「ミクニに1年待ってと言われた」というネタをよく使っているらしいから、結構忙しかったのかもしれない。それはともかく、授業で必要であるわけでもなく、いわば心意気で引き受けるのであるから、時には「できません」ということもある。

授業以外、という意味では作曲の作品発表も一度担当したことがある。これはかなり大変だった。すべての音が無調で、しかも後半がフーガのようになったヴァイオリンとピアノのための作品だったと思うのだが、ヴァイオリニストがかなり文句を言っていた。「こういう曲を練習しているとどんどん下手になるような気がする」ということである。確かに、通常は6度、8度などを練習している指の感覚で7度、9度を弾くと耳の感覚も指の感覚も変になるように思った。本番が終わった後で作曲者から「ありがとう。そのうちメシでも食いましょう」と言われたが実現していない。私が新作を頼まれるとほとんど断ってしまうのはこの時の体験があるのかもしれない(報酬がほしい、という訳ではない。ひとつの作品を演奏する労力をわかってほしいということ)。

現代は、演奏の「譜めくり」を頼む際も報酬がいくら、ということが条件になっていると聞くが、昔はそんなものは無報酬が基本で、伴奏であっても「ミクニ君こんど伴奏を頼むかも知れない」と突然廊下で言われたリするのが日常であった。勉強になるので大抵は引き受けたのだが、先ほどのように「1年待ってよ」などと言った(らしい)こともあるそうだし、当たり前と思われてもなあ、という頼み方をされたこともあったように思う(さっきのヴィオラ専攻生のことではない)。そして、大学のレッスンだけならまだしも、先生の自宅レッスンについてきてほしいということもある。これもかなり大変。

ピアノはその点、独奏が基本なので伴奏者を探す必要はそれほどないのだが、協奏曲の勉強では伴奏ピアニストが必要。オーケストラとの合わせの前にピアノでの練習は大変重要だと思っている。その意味についてはここで書かないが、少なくとも3回くらいは行っておくと安心だと思う。

伴奏によって独唱、独奏の意味は違ってくると言ってよい。それゆえどんな伴奏をおこなうか(編曲の方法を含めて)が重要である。そして、ソリストを生かす伴奏をすべきなのであるが、残念ながらそのピアノ奏法にかなり癖のある人もいるようだ。できれば弾き方の「癖」はない方がよいと思うし、いつかも書いたが「表現にかかわる技法を系統的に使うこと」は避けたい、と思う。

対位法的作品の演奏

子どものころ、習っていた先生がバロック音楽作品が好きらしく、毎回のレッスンでは必ずバッハ、ヘンデルなどを学習したことを覚えている。私としては譜読みが難しいので好きになれなかったのだが、こういう作品の演奏から、頭を使って音楽を理解することを覚えたのだと思う。

音楽は「音を楽しむ」と書くので、感じたままに表現すればよいのだと思っている人も多いだろうが、そんな簡単なものではない。例えば4声のフーガを1人で演奏する時にはかなり知恵を使うことを誰もが体験することであろう。2声のインヴェンションは簡単な対位法的作品であるがこれで苦労している人を何人も知っている。3声、4声となると難しさは相当なものだ。これはピアノ教則本がほとんどホモフォニー作品で構成されているためで、子どものころから対位法的作品をたくさん与えられた私としては、この辺を解消する教則本があればいいのになあ(もっと楽しく対位法を学べるような)、と思うことがよくある。

さて、最近は練習の初めにバッハ「平均律クラヴィーア曲集」から1曲を演奏することにしているのだが、これはなかなか大変だ。かつて練習した曲でもなかなか復活しないし、新しく譜読みする曲など、少年時代に戻ったようで「知恵熱」が出そうなくらい頭を使う(?)。

今日は第1巻のイ短調を演奏してみたが、これは規模の大きい4声フーガをもつ。最後に長いオルゲルプンクトが登場するのが大きな特徴で、オルガン、あるいはペダル・チェンバロの演奏を考えていた可能性があると思われる。曲の構造は分かりやすいが、声部が交錯する所もあり、演奏はなかなか難しかった。何回か練習して、弾けるようにしたいと思っている。

平均律クラヴィーア曲集の作品で私が愛奏するのは第1巻ではハ長調ハ短調嬰ハ長調嬰ハ短調、嬰へ長調嬰ヘ短調ト長調嬰ト短調。第2巻ではハ長調ハ短調嬰ハ短調ニ短調ヘ短調ロ長調などである。これらは気が向くと何度でも演奏することにしている。ホモフォニー音楽の多いピアノ曲であるが、こういう対位法作品の勉強を怠ると、新しい作品を譜読みするときの脳の働きがうまくいかない。それゆえ大切な勉強なのである。

 

ピアノ調律

今までにかなり多くの調律師さんとお付き合いをしてきたが、腕も人間性もいろいろであった。腕がよければもちろん言うことはないのであるが、時にはこちらの言い分も聞いてほしいこともあり、人間性も私は重視して調律師を選んできた。

ピアニストは基本的には自分の楽器を持ち歩かないので、演奏会場にあるピアノの状態は常に気になるところだ。そして本番前の調律はだいたい2時間くらいでお願いし、その後で、例えばもう少しグリッサンドが弾きやすくならないか、ある特定の音が鳴りすぎているがそれを何とかしてもらえないか、などの相談もする。これが重要なのである。

ある時、あるホールのスタインウェイD型のタッチのことで、少し重いように感じるのだがこれが標準ですか、と相談したところ「ああ、ヤマハのタッチをお望みなんですね」と言われたことがあったが、こういう返答は私としては心外である。スタインウェイでは何度も演奏してきたし、その当時、自宅ではベーゼンドルファーを弾いていた。ヤマハのタッチが好きということとは違う。スタインウェイに標準のタッチがあることは知っている上で、その時のタッチが標準なのかを確認したかっただけなのだ。標準です、というのならこちらの体調やら感覚が変なのだろうし、その辺を確認したかったのである。

調律が終わってリハーサルをしている時に音が異常に狂ってしまったことがある(ベーゼンドルファー Model 200)。たしか空調の関係でそうなったのではないかというように記憶しているが、すでに調律師は帰ってしまった後だった。仕方なく別の会社の人を呼んだが、調律関係をを他人に任せると危険、ということを学習した(少なくともプログラム前半くらいまでは残ってもらう契約をしておいた方が良いし、人選はできる限り自分で行うこと)。

自宅のピアノに関しては、しばらく演奏活動を休んでいたこともあり、あまり調律を行わない時期もあったが、最近地元で頼りになる人を見つけたので心強く思っている。そして年に1回で十分であるのも素晴らしい(その昔は季節に1回位のペースで頼んでいたこともある)。音が安定しているのだ。

ピアノは、価格も高いし維持費にお金がかかる。それで音合わせくらいは自分で行うようにしているのだが、今後は少しずつ「整調」なども勉強していきたいとは思っているところである。