「テンポ」について

ある講習会のための資料を準備しているところである。ピアノ演奏法の基礎、というのがタイトルで、楽譜の読み方を基本から学び直そうというのがその内容と言ってよい。

講習は4つに分かれているが、その中で「テンポ」について考える時間がある。そこで「テンポ・オルディナーリオ」やメトロノーム記号、速度標語などについて考察する予定なのだが、ベートーヴェン交響曲第9番」の第2楽章トリオのテンポについて再考してみた。いつもここに来ると「速すぎるなあ」と思っているのだが、それはかつては楽譜に「全音符=116」と書かれている(昔のブライトコップ、現在国内版小型スコアなど)ため、「プレスト」という指示があるため、などの考え方があるため、そのように演奏されるということは承知している。ただ、普通はスケルツォ楽章でのトリオは主部よりは遅めに演奏されるのが古典派では常であるので「二分音符=116」という指示に近い演奏も行われている( フルトヴェングラーなど)ということを勉強してきた。

最近、金子健志『こだわり派のための名曲徹底分析 ベートーヴェンの<第9>』とベーレンライター版の校訂報告書を読み(前者は随分前に買ったのだが内容の半分以上を忘れていた)、楽譜を作る作業の大変さを改めて感じた。演奏者側は楽譜に基づいて演奏するので、楽譜が作曲者の意思を反映していることは最も大切だと思うのだが、この曲ほど混乱していると、いったい何が正解なのか分からなくなることもある。

いくつか録音を聴き比べてみた。

アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団盤は、主部は楽譜通り付点二分音符=116、トリオは全音符=80くらいだった。これが普段聞いている「速めの」テンポのように思う。トスカニーニ/NBC交響楽団では主部がやや速く120くらい、トリオは80くらい。だいたい同じテンポのようだが、アーノンクールはスタッカートを長く演奏させているのが気になる(第6番「田園」などにも顕著)。

その他色々な演奏があるが遅めのテンポを採用しているのは前述のフルトヴェングラー(二分音符126くらい)のほか、現代ではノリントン(二分音符=116)などがいる。

このトリオが「プレスト」を意図しているのなら、二分音符116は遅すぎだし、全音符だと演奏不可能に近い。いったいなぜこんな書き方が? と思うが実はベートーヴェンには「ピアノソナタ第29番(ハンマークラヴィーア)」の問題(第1楽章のテンポが異常に速い)があるので「楽譜のテンポに従わなくてはならない」とは言えないことは明白。問題は「なぜそんなテンポ指示が書かれているのか」ということだと思う。

この点については今後また調べてみたいが、別の問題をひとつ。ブラームスの「ピアノ・ソナタ第1番」第3楽章のトリオは「ピウ・モッソ」となっているが、主部(Allegro ma non troppo 6/8)に対して3/4拍子になるため、拍の単位から考えると、遅くなったような印象を与える演奏が多い。例えばリヒテルだと主部が付点4分音符=116くらいに対してトリオは(揺れはあるが)4分音符=160~168だった。このテンポを3で割って1小節のテンポにすると付点二分音符=56となる。同様に主部の1小節当たりのテンポは付点2分音符だと58だから、小節単位だとトリオの方が遅いことになる。ただ、4分音部1拍だと速いテンポということにはなるのだ。(以下譜例はすべてIMSLPより)

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これでは「ピウ・モッソ」にならないのではないか、と学生時代のピアノの恩師がしばしば言っていた。それについて考えてみると、ブラームスはしばしば拍の単位を揃えるのではなく、「1小節を同じ長さに保って心理的な一貫性を保つ方法」を採用したらしい(「F.W.シュヌア教授特別講演会 ブラームスのピアノ作品の正しい演奏への提言」 荒川恒子通訳、『日本ピアノ教育連盟会報 1994年春号 No.37』1994、21~22頁)。以下譜例のテンポについて述べられたものである。

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それがここでも当てはまるとしたら、もっと速いテンポで演奏するべきだということになると思うがいかがだろうか。解説書を見ると(「作曲家別 名曲解説ライブラリー7 ブラームス音楽之友社)」には、「トリオ(ピウ・モッソ、ハ長調、4分の3拍子)は、なだらかな音階ふうの旋律(譜例7)をもっているが速度が速いので、予期した対比効果を出さず、情熱的でさえもある」とあった。これではよく分からない。若い頃読んだ別の本には「主部とトリオは普通、同じくらいのテンポで演奏される」ともあったが、これも混乱する。そんな訳で(?)今までこの曲を演奏してこなかったのはこの楽章のテンポが分からなかったからなのである。

テンポの設定は音楽の基本的なことなので、さまざまな角度から考え、間違わないように判断したいと思っている。