楽典(3)

アクセントとシンコペーションについては『音楽キーワード事典(東川清一・平野昭編著、春秋社)』が参考になる。

アクセントとはある音なり和音なりが強調されることを言うが、強調の方法には物理的なものと精神的なものがあると同書には書いてある。物理的アクセントは簡単に理解できようが、その中にも「強弱法的アクセント」「音高的アクセント」「アゴーギク的アクセント」があるということであった。たしかに高い音には強調されている感じがあると以前から思っていたので、この考え方には賛同する。「精神的」とは何かということであるが、例えばアウフタクトの例が書いてあった。

さて、シンコペーションについては「拍節パターンの規則的なくり返しが故意にかき乱されるとき、これを<シンコペーション>といいます」と書いてあった。例としてはベートーヴェンピアノソナタ Op.28第1楽章小結尾部分や、「熱情」ソナタ第1楽章(第98小節)などが掲載されていた。そして「完全シンコペーション」についても書いてあり、ベートーヴェンが歴史上最初に用いたのことである(「ピアノソナタOp.101」など)。

「規則的なくり返しが故意にかき乱される」というのが定義だとすれば、シンコペーションは聴き手の感じ方次第で成立したりしなかったりということにならないだろうか。私は「熱情」ソナタの第1楽章(譜例)を聴いても「拍節が故意にかき乱された」感じを受けたことはない。それは左手の刻みが安定しているし、前の小節に sf の和音があるのでしばらくは拍子感を失わずに聴くことができるからだと思う。

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辞典にはどのように書いてあるか調べてみた。平凡社『音楽大事典』だと「『細分』『短縮』等を意味する古代ギリシャ語に発し、一般に拍子、アクセント、リズムの正規的な進行を故意に乱すことを意味する」とある。さらにその方法は3つあり、弱拍の音を次の強拍部まで延長するもの、強拍部を休止するもの、弱拍部にアクセントを置いて演奏し、強弱の関係を逆にするもの、とあった。

さて、シンコペーションはあくまで規則性が成立している中で現れるから面白いのであって、曲の冒頭に現れたらその曲が何拍子か分からなく、大変ストレスになる、ということを子どもの頃に知った。次のような曲である。

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この曲では、普通に演奏されると1小節目の1拍裏にアクセントが付いているように聞こえる。これは左手の伴奏形に由来するものと考えられるが、ようやくシンコペーションであったと気付くのは譜例に続く第8小節になる。なぜベートーヴェンがこのような主題を書いたのかがしばらく理解できなかった。ピアノソナタでは作品22(第11番)も同様である。

フレーズ冒頭に現れた例。シューマン「幻想曲」の以下部分は、誰がどう弾いてもこのフレーズの最初に休符があるということは分からないのではないだろうか。

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この曲の場合、さなざまな工夫があることを知っている。第2小節の1拍目にアクセントを強調する人、1小節目の最後の音を少し延ばして第2小節を強調させる人。それでも、楽譜を見ないとこの部分の休符を理解することは難しいと思う。特に初めてこの曲を聞いた人には分からないことであろう。

最後に、何度聴いても拍子感がなくなってしまいストレスになる例。ブラームス弦楽四重奏曲第1番」第3楽章の以下部分は、楽譜を見ながら聞いても強拍がどうなっているのかいつもわからない。ブラームスでは「交響曲第3番」にも似たようなシンコペーションがでてくるが、聴き手の拍感をわざとずらすような書法が、後の変拍子などを多用する音楽になっていったようにも思う(ラヴェルあたりまでは変拍子を明記せずに元の拍子を保ったまま強拍をずらす書き方が多い)。

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シンコペーションが聴き手の感じ方で起こるものだとしたら、この曲のこのリズムはシンコペーションである、という言い方には慎重であるべきなのかもしれない。この問題は今後も考えていきたいと思っている。