楽典(5)

スラーとタイについて。

スラーslurは「異なる音にかけてしるされた」弧線で、レガートに演奏することを指すものである。それに対しタイtieは「同じ高さの二つ以上の音符を切れ目なしに演奏する場合」の弧線を指す(石桁真礼生ほか『楽典 理論と実習』参照)。

 タイで結ばれた2つ目の音は通常演奏されないことになっているのだが、時に例外もある。例えば以下のような箇所。バッハ「イギリス組曲第1番」ブーレ1の後半である(バッハ協会版・IMSLPサイトより)。

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譜例の4小節目の低音部の音形は、チェンバリストの演奏を聴くと、普通は最初の音をテヌート、2番目の音はやや短めに奏しているようである。つまりここはタイではなくArticulation を示すと考えられる。

ちなみに、私の所有している春秋社版だと以下のように記されていた(①については「原本にはこのようなスラーがかけられている」と注がある)。

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こういう「同音のスラー」は、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第31番」の第3楽章Adagio 部分(第5小節)を思い出す。ここはクラヴィコードのベーブンクを表したものと言われ、Op.106の第3楽章やチェロ・ソナタ第3番第2楽章に同様の書き方がみられる(譜例下のチェロソナタの奏法はチェルニーが「スラーのかかった2つめの音は第3指でもう一度弾くこと」と指示)。

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ただ、ベートーヴェンがこの書き方をした場合、すべて2つ目の音は演奏されねばならないのかというとそれほど簡単ではない。「大フーガ」Op.133のテーマは8分音符2つが弧線で結ばれているが、通常はタイで演奏する。これについてはC.ローゼンの『ベートーヴェンを"読む" ――32のピアノソナタ』に詳しくその理由が書かれているので、是非ご一読いただきたい。当時の演奏慣習では音符の長さ一杯には伸ばさなかったということと、ベートーヴェンがいかに音符の長さを正確に書こうとしていたかがわかる。それと、Op.110についてもバックハウスはA音のタイで演奏しているので、私としては、まだはっきり答えが分かったとは言えないと思っている。

この、同じ音のスラーをタイにせず演奏させる例は、他にはショパンのバラードなどがあるので要注意かと思う(第3番、第17小節など)。

スラーの解釈については、Articulation を必ず正確に守らねばならないのかという問題がある。これについては、またいつか投稿する予定である。楽譜の読み方は演奏慣習との関係もあり、意外に難しい。